相手とは数回面談を重ね、条件もおおむね固まってきた。けれど、机に向かうと「従業員にどう伝えればいいのか」が頭から離れない。そんな夜を過ごしておられないでしょうか。
会計事務所のM&Aでは、統合後の半年〜1年で従業員の半数が辞めてしまうケースが実際に報告されています。出典は後ほどお示ししますが、これは決して特殊な話ではありません。それでも、所長として「いつ」「誰に」「何を」伝えるかを丁寧に設計すれば、離職連鎖は十分に防げるテーマです。
本稿では、離職リスクが現実化する3つの分岐点を整理し、明日から着手できる9つの実践策をチェックリスト形式でお示しします。M&A後の100日プランの全体像については会計事務所M&A後100日プランもあわせてご覧ください。
なぜ会計事務所のM&Aで離職が起きやすいのか
「うちの所員に限って」と思いたい気持ちは、よくわかります。けれど業界全体で起きている構造が背景にあります。
職員の働き方が「所長との人間関係」に強く依存している
会計事務所の多くは、所長税理士の人柄や仕事の進め方を軸に職員が集まっています。長く勤めた職員ほど、所長との距離感を仕事のやりがいに結びつけています。買い手の経営陣に代わると、この「距離感」がリセットされたように感じられ、心理的な拠り所が揺らぎます。
顧問先と職員が「個人ベース」で結びついている
担当顧問先との関係も、職員個人の信頼で成り立っているケースが少なくありません。所長交代に伴って担当替えが起これば、職員は「自分が積み上げてきた関係をリセットされた」と受け止めがちです。中小企業庁が公表する『中小PMIガイドライン』でも、人材定着の鍵として「既存の業務関係を尊重した移行設計」が挙げられています。
業界の人材流動性が高く、転職先がすぐ見つかる
日本税理士会連合会の調査では、税理士登録者のうち60歳以上が約50%を占めるとされています。世代交代を控えた事務所が多いということは、裏返せば、経験ある職員にとって転職市場が活発だということです。会計事務所の職員は、求人サイトに登録すれば数週間で次の職場が決まるとも言われています。
つまり「我慢して残る」選択肢を取りにくい構造が、業界全体にあるわけです。
離職リスクが現実化する3つの分岐点
「どこで気をつければよいか」が見えれば、不安は備えに変わります。離職が連鎖しやすいタイミングは、おおむね3つに集約できます。
第1分岐点:合意発表時(D-Day当日〜D+7)
買い手との合意を職員に伝えるその瞬間です。事前情報がないまま全員説明会で初めて知らされると、職員は「自分は信頼されていなかった」と感じます。最初の7日間は、憶測と動揺が事務所内を駆けめぐる時期です。
第2分岐点:統合直後30日(D+1〜D+30)
給与・賞与・退職金の扱い、人事評価の基準、勤務地、就業時間。職員が日々気にする条件が、合意発表後30日のあいだに次々と「未確定」のまま積み上がります。ここで情報の出し方を誤ると、信頼貯金が一気に削られます。
第3分岐点:半年〜1年(D+180〜D+365)
業界誌ZEIKEN LINKSが公開している失敗事例によれば、統合からおよそ半年〜1年のあいだに、従業員の約半数が退職したケースが報告されています。きっかけは買い手側の業務方針への疲労感や、所長税理士の段階的な離脱に伴う「拠り所の喪失」とされています。事務所側を一方的に「準備不足」と切り捨てるのではなく、制度設計の死角がここに集中していたと読み解くほうが実態に近い事例です。
| 分岐点 | 時期 | 起こりやすい事象 | 売主(所長)が打てる手 |
|---|---|---|---|
| 第1分岐点 | D-Day〜D+7 | 寝耳に水・憶測と動揺 | 副所長への事前1on1/全員説明会の脚本準備 |
| 第2分岐点 | D+1〜D+30 | 給与・処遇の不安、評価軸の混乱 | 継承条件の文書配布/質問窓口の設置 |
| 第3分岐点 | D+180〜D+365 | 燃え尽き・諦め退職、買い手方針への疲労 | D+180チェックイン面談/所長の段階的離脱スケジュール開示 |
離職を防ぐ9つの実践策

ここから先は、明日からでも着手できる手順です。一つずつ進めれば、退職連鎖は十分に防げます。
策1:従業員説明会の「前」に副所長と1on1で握る
全員説明会の2週間ほど前に、ナンバーツー格の職員と個別に時間を取ります。守秘義務契約を結んだうえで合意の背景を共有し、説明会当日の脚本を一緒に練ります。発表当日に副所長が落ち着いていることが、現場の動揺を最小限に抑える土台になります。
策2:「変わること/変わらないこと」を文書化して配る
口頭での説明は、人によって受け取り方が大きく変わります。給与・勤務地・担当顧問先・評価制度のうち、当面変わらない項目と将来見直し対象の項目を、A4一枚に整理して配布します。手元に残る紙があるだけで、職員の不安は大幅に和らぎます。
策3:給与・賞与・退職金の継承条件を初回説明で明示する
「あとで検討します」と言われた瞬間に、職員は最悪のシナリオを想像し始めます。初回の説明会までに買い手と事前調整を済ませ、給与水準・賞与算定・退職金の積み上げ方を明示できる状態にしておきます。具体額の幅まで踏み込めれば、信頼度はさらに上がります。
策4:キーパーソンへのリテンション設計(金銭+非金銭)
事務所運営の要となる職員には、別途リテンション施策を組みます。金銭面では一定期間の在籍を条件とした特別賞与が一般的ですが、金額は事務所規模と職員の役割で大きく変わるため、買い手と幅で設計します。同じくらい大事なのが非金銭面、つまり役職・裁量範囲・将来の昇進パスの明示です。
策5:顧問先担当の継続を最優先するアサイン方針
統合直後の3〜6ヶ月は、担当替えを最小限に抑える方針を職員に伝えます。職員にとっての「自分の顧問先」を守ることが、結果として顧問先の離脱防止にもつながります。買い手の都合で担当替えを進めたい意向が出ても、半年は据え置く合意を事前に取っておきます。
策6:所長税理士の段階的離脱スケジュールを公開する
「所長はいつまでいるのか」は、職員の最大の関心事です。引き継ぎ期間を6ヶ月・12ヶ月・24ヶ月のどの段階で設計しているのか、開示できる範囲で説明会の場で示します。曖昧にしておくほうが波風が立たないと感じる方もおられますが、実際には逆で、見通しの不在こそが不安を増幅させます。
策7:D+30/D+100/D+180のチェックイン面談を制度化する
統合後30日・100日・180日の節目に、職員一人ひとりと30分程度の面談を実施します。買い手の人事担当ではなく、可能なら所長税理士自身か信頼関係のある副所長が聞き手に立ちます。面談の場は、職員が本音を出せる心理的安全性が確保されているかが鍵です。
策8:従業員の「辞めたい」兆候を捉える観察ポイント
退職を考え始めた職員には、いくつかの共通サインが現れることが知られています。会議での発言が減る、有給取得が増える、外部研修への参加申請が止まる、昼食を一人で取る回数が増える。月に1時間ほど、職員ごとの様子をメモしておくだけで、早い段階で声をかけられます。
策9:辞める従業員が出たときの顧問先解約防止策
どれだけ手を尽くしても、退職が発生することはあります。重要なのは、退職決定後の3週間で顧問先への引き継ぎを丁寧に行うことです。退職する職員と新担当が一緒に顧問先を訪問し、所長税理士からも経緯を一言添える。この三者面談を1回挟むだけで、顧問先の不安は大きく和らぎます。
| 策 | 実施タイミング | 所要時間 | 難易度 |
|---|---|---|---|
| 1. 副所長と事前1on1 | D-14〜D-7 | 2〜3時間 | 中 |
| 2. 文書化して配布 | D-Day 当日 | 作成3時間/配布即時 | 低 |
| 3. 給与・賞与・退職金の継承条件明示 | D-Day 説明会内 | 1時間(買い手と事前調整) | 高 |
| 4. キーパーソンへのリテンション設計 | D-30〜D-7 | 5〜10時間 | 高 |
| 5. 顧問先担当の継続方針 | D-Day〜D+180 | 継続的判断 | 中 |
| 6. 所長の段階的離脱スケジュール公開 | D-Day 説明会内 | 作成2時間 | 中 |
| 7. D+30/D+100/D+180チェックイン面談 | D+30以降 | 1人30分×全員×3回 | 中 |
| 8. 退職兆候の観察 | 継続的 | 月1時間程度 | 低 |
| 9. 退職発生時の顧問先解約防止策 | 発生時 | 都度3〜10時間 | 中 |
所長税理士自身の「罪悪感・喪失感」とどう向き合うか
実は、いちばん語られないのが、所長税理士ご自身の感情の整理です。
「自分が決めたから職員が動揺している」という思いは自然なもの
長年苦楽を共にした職員の顔が浮かぶたび、胸が重くなる先生は多くいらっしゃいます。けれどその感情は、職員一人ひとりを大切に思ってきた証でもあります。罪悪感を消そうとするより、感情があることを認めたうえで、次にやれる手当てに目を向けるほうが前に進みやすいものです。
段階的離脱の中で「次に何をするか」を持つことの意味
統合後の自分が空っぽにならないために、引退後の活動を一つでも決めておく方法があります。顧問業の継続、後進指導、地域活動、家族との時間。どれを選ぶかは先生ご自身の自由です。
よくある疑問(FAQ)
Q1: 説明会のタイミングはいつがベストですか?
買い手との最終合意の直前ではなく、合意当日または翌営業日が一般的です。情報漏れリスクと職員の納得感の両立を考えると、合意決裁とほぼ同時の発表が現実的です。
Q2: 半分辞められたら顧問先も離れてしまうのでしょうか?
職員と顧問先の信頼が「個人ベース」で結びついている場合、その懸念は現実的です。だからこそ策9の三者面談や、策5の担当継続方針が重要になります。
Q3: リテンションボーナスは効果がありますか?
中小企業庁の『中小PMIガイドライン』では、金銭的インセンティブ単独より、役職・裁量・将来パスの明示と組み合わせるほうが定着率が高い傾向が示されています。
まとめ
会計事務所のM&Aで起こる従業員の離職連鎖は、第1分岐点(D-Day〜D+7)、第2分岐点(D+1〜D+30)、第3分岐点(D+180〜D+365)の3つの節目に集中します。本稿でお示しした9つの実践策を時系列で並べておくだけでも、現場の動揺は大きく抑えられます。先生お一人で抱え込まなくてよいテーマですので、外部の伴走者を交えながら準備を進めていただければと思います。
ここまで読み進めてくださった先生は、すでに統合後のリスクを正面から見据えておられます。とはいえ、最初の説明会の脚本や、副所長との事前1on1で何を話すかは、事務所ごとに事情が違います。同じ会計事務所の承継支援に伴走してきた立場から、一度お話を伺うことができればと思います。
💬 説明会の前に、30分だけ話してみませんか
ここまで読んでくださった先生のなかには、「自分の事務所の場合、最初に何から手をつければいいのか」を整理したい方もおられるかもしれません。
事務所の規模・所員構成・お相手との合意状況によって、最初の一手は変わります。「説明会で何を話すか」「副所長と事前にどこまで合意しておくか」「就業規則の差をどう埋めるか」。一般論ではなく、先生の事務所の状況に合わせて一緒に整理する時間を、30分だけ取らせていただければと思います。
「売る」と決めていなくても構いません。合意前のご相談も、合意後の100日設計のご相談も、どちらも承っています。
※ オンライン対応可。秘密保持の取り扱いも事前にご説明します。ご相談内容が外部に共有されることはありません。